山本博文の北ルソン・コーヒー探訪記⑤

こんなに品種があるんです

 自分の理解の範囲を超える事を体験すると、ボクは笑いが止まらなくなってしまいます。特に、芸術に関して。

 CGNの反町さんのお誘いを受けて、「The Travel for Joyful Way」と題した、古来日本に伝わる三種之身宝(みくさのみたから)を伝えるワークショップツアーのバギオ公演へいってきました。主催者は世界で活躍するアーティスト飯田茂実という方。詳しくは、ここをご覧くださいね。

 このワークショップは、スピリチュアルダンスとでもいいましょうか…今までに出会ったことのないダンスを繰り広げるものでありました。そんななか、ボクは終止笑っておりました。「何これ、わからん。全然意味が分からん。」人それぞれが持っている内面のどうにも言葉で表現できないような感情をダンスで表現しているような芸術。ボクらの原風景を思い起こさせるような力強いダンス。誤解を恐れずに例えるならば、「醜い」です。醜悪美という言葉が一番しっくりくるようなダンスでした。ボクが大好きな芸術家、岡本太郎さんが「自分の中に毒を持て」という本の中で、

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「ただ一言、 「美しい」 ということと 「きれい」 というのはまったく違うものであることだけをお話しておきたい。美しいというのは、無条件で、絶対的なものである。ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動が起こるのだ。だから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある。無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。しかしそれでも美しいのである。「醜悪美」 という言葉も立派に存在する。ところが、 「醜いきれいさ」 なんてものはない。美の絶対感に対して、 「きれい」 はあくまで相対的な価値しか持っていない。つまり型にはまり、時代の基準に合っていなければならない。「あそこの奥さんはきれいな人だ」 というのは、その時代の 「美人型」 にはまっているからだ。有名な女優さんに目つき、口元、鼻のかっこうが似ていると自動的に美人と言われる。その 「型」 は時代によって変わるのだ。だから、 「美人」 というより、本当は 「きれい人」 というべきなのだ。しわくちゃのおばあさんだって、美人でありうる。鼻がペチャンコだろうが、ヤブニラミだろうが、その人の精神力、生活への姿勢が、造作などの悪条件も克服し、逆にそれを美に高める。まして、芸術の場合、 「きれい」 と 「美」 とは厳格に区別しなければならない。「あら、きれいねえ」 といわれるような絵は、相対的価値しか持っていない。

 岡本さんの芸術論を芸術とするならば、まさにこの醜悪美という言葉がピッタリで、ボクの感情を大きく揺さぶりました。久しぶりに、こういった感情を抱かせてくれたアーティスト飯田茂実に感謝感謝のひと時でした。 

 

閑話休題

 

 さて、コーヒーです。ボクが現在いるフィリピンには、いくつかのコーヒーの品種が育っています。品種って何よ、と思う方もいらっしゃると思いますが、要はあれです、お米でいうところの「ササニシキ」とか「コシヒカリ」とかそんなものです。日本米と呼ばれるものが、コーヒーでいうところの「アラビカ種」とか「ロブスタ種」に当たります。そして、ササニシキがコーヒーにおいては「ティピカ」とか「ブルボン」とかに当たります。

 

 この品種は、現在100種類以上世界に存在しておりまして、それぞれ特有の性格を保有しています。そして、ここフィリピンでは、ティピカ、レッドブルボン、ガルニカ、サンラモン、レッドカツーラ、イエローカツーラ、ムンドノーボ、モカ、エムサックセレクション、ハイブリッドティモールが育っています。特にティピカ、レッドブルボン、ガルニカ、イエローカツーラそしてサンラモンが農家で育てられています。ではそれぞれの特徴を、写真で見てみましょうか。

ガルニカ-オレンジ色です
ガルニカ-オレンジ色です
イエロー・カツーラ黄色です
イエロー・カツーラ黄色です
サン・ラモンです
サン・ラモンです
節が取っても短いです
サンラモンは節がとっても短いです
ティピカの実は縦長です。
ティピカの実は縦長です。
ブルボンの実は丸いです
ブルボンの実は丸いです

 といった具合です。その他にも、とっても大きい葉っぱの品種や、逆にとっても小さい葉っぱの品種もあります。そんな品種の特徴を見分けるのが、結構楽しかったりするのです。また、機会があれば、他の品種も紹介しようと思います。

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コメント: 1
  • #1

    chi haruko (金曜日, 03 4月 2015 10:10)

    品種にいろんな形があり、面白いもんですね!
    あまりに、きれいな色なんで、ビックリ!